旅の情報編04:モロッコ人とくらし
ラマダンの1ヶ月 モロッコ料理の調理器具とスパイス


 
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犠牲祭がやってきた!

犠牲祭というのは、旧約聖書に出て来るアブラハム(アラビア語読み:イブラヒーム)が、次男のイサク(コーランでは長男のイスマイール)を神へのいけにえにささげようとしたところに、「お前の信仰心はよくわかった、代わりに羊をささげなさい」とお告げがあった、というお話に由来しているイスラム世界のお祭りの中でも一番大きなお祭りで、メッカの大巡礼を行った後に、本来はそれを達成したことをお祝するために行われるお祭りです。
国民みんながきちんと休む大きなお祭りといえば日本ではお正月ですが、イスラム圏の人々にとってはこのお祭りがまさに「お正月」。(新年を祝うお祭りではありません)

お正月には工場も休みなら、道路を走る車の数も減るように、犠牲祭当日のモロッコもほとんど同じような調子です。
幹線道路を走る車やトラックの数さえまばらになり、いつも聞こえてくるはずの物売りのラッパや清掃車のクラクションもまるでない、お祭りなのに、なんだかとても静かな日なのです。

そんな街の中で、騒ぎにうかれる人間達の心と、どこかで危機を察知しているかのような羊の鳴き声だけが街の空気をざわつかせているその日と、その日が去り行くまでのお話です。
■ 食用にされるのはもっぱらオス。メスはあまり食べません。   ■ 郊外のスークでは羊が安く買える、ということで、日帰りで遠くまで出かける人も。

羊が家にやってくる!
犠牲祭について世俗的に解説するならば、各家庭で羊をさばいて、お腹一杯肉を食べる事ができる特別な日。
普段肉を食べる事が難しい家でも、なんらかの形でお祝のための肉を準備するのが大半ですが、一般家庭におおいては、いくら大きなお祭りとはいえ、お金はそんなに使えません。けれども家のプライド?にかけてなんとか普通にお祝するために、この日の何ヶ月も前から準備がはじまるのです!

羊の相場は、やはり直前になると高騰して手が出しにくくなるため、2、3ヶ月も前から家の中にある「羊部屋」(南部の土作りのカスバにはよく見られます)に新しく羊を買い入れたり、近所の農家に預けたりして「その日」のための羊を準備する家庭も少なくありません。
また、羊の産地によっても味が違うということで、なるべくおいしい羊がいい、と産地にまで気を配って購入したりもする念の入れよう。
 
 
羊のプロであるところのノマド(遊牧民)に言わせると、山間部でたくさん歩きながら育ち、自然のエサを食べて丸々と太ったやつが一番いいとのこと。南部で食べるタジンが北部で食べるタジンよりもおいしい事が多いのは、もしかしてそんなところにも原因があるのかもしれません。

一方町場では、羊の値段は犠牲祭当日のだいたい1ヶ月前あたりから、グングン上昇していきます。
ハイパーマーケットのマルジャンなどでも、2週間くらい前から駐車場に羊専用テントがたてられたかと思うと、「プロモーション価格!!キロ40DH!」なんていう表示が、みるみるうちに50、60と高い方に上書きされていくのが、外国人にはなんとも珍しい光景です。

さて、ある時の我が家が羊を手に入れたのは犠牲祭の2日前。
大の男が二人でつれだって出かけ、小さなボロ車のトランクに、手足をしばった大きな羊を押し込めて帰ってきました。
なんでも「スークで一番大きな羊を買ったから、みんなにいくらで買ったのか?って聞かれちゃったよ〜」などとまんざらでもない様子。
モロッコでは、この犠牲祭のためにローンを組んでまで羊を買う人たちがいるくらいですから、「でっかい羊」は、ちょっとした男の勲章なのかもしれません(笑)
そんなふうにして家に到着した羊は庭の片隅につながれ、この時期になるとスークや道端で販売されている羊のエサ…である「ただの草」を一山あてがわれ、犠牲祭当日までの日々を送ることとなりました。
 
 
羊が「肉」になってしまうまで
そして当日。
モロッコの慣例ではまず王様がお祈りをささげ羊を捌く、という一連の儀式のテレビ中継が終わった後、各家庭での儀式がスタートするのだという事でしたが、我が家では羊を捌く作業を手伝ってくれる近所のおじさんの都合で、それよりも少し早く作業がスタートしました。
羊は誰にでも捌けるというわけではなく、捌き方をよく知っている人でないとなかなか手早くできません。ですので、自分で動物を捌く、という習慣がなくなりつつある今は、やはりお肉屋さんであるとか捌き方を知っている人に作業を頼むことになっています。

さて、ガレージからそろそろと庭に出て来た羊は観念したのか特に暴れる様子もなく、二人の男に押さえられると足をはらわれ、あっという間に地面に横たえられてしまいました。
アゴをおさえられた羊の白い首からは、「ビスミッラー」(神の名において)の一言とともに走ったナイフのひとかきで、あっと言う間に赤い血がシューシューと音をたてて吹き出し、より楽に死ぬ事ができるようにと、ナイフはさらに切り口を深くするのでした。

それなのに羊ときたら!!
もはや声を出すこともできないのに、体は一生懸命声を出そうとしてゴォゴォ、ゴホゴホと奇妙な音をのどから出すのです!その姿に、ビデオカメラをまわしていた私の手も、自然と電源を落としてしまいました。

そしてついに動かなくなり絶命したかと思いきや、最後の一瞬、再び突然手足を、まるで走っているかのようにばたばたさせたり…!
死は一瞬では訪れないという現実。自分から見たいといって羊まで買ってこさせた私でしたが、とにかくもう頭がくらくらしてしまうのでした。

「殺す」という行為は、テレビや映画で見るように一瞬で過ぎ去ってしまう行為ではない…。
現代の私たちの、死というもののあらゆる不吉な影からなるべく遠ざかろうとしてきた生活の中では、こういった違う文化の中に生き残っている習慣を残酷だとか、野蛮だと言ってしまうことはきっと難しくないでしょう。

けれども、自分達が肉を食べている事の現実、自分達が多くの生き物の死によってささえられている現実を、こうした日常の中に垣間見る事ができるなら、愉快犯的な殺人なんて、ちょっとやそっとの事ではしようとは思わないだろうなぁと、ピクピクバタバタ動きながら死んで行く羊を見ながら思うのでした。(実際イスラム社会では、お金目当てや目的のわからない殺人などの発生はあまりありません)

たかが羊、されど羊。
クリーンな日本の生活の中で、徹底して不吉、不浄とされるものから遠ざけられてしまうと、生き物としての感受性も想像力も、だんだんと薄くなってしまうのかもしれないと、死に行く羊を目の前にしながら、むしろ自分の生活の現実の方に妙な寒さを感じた一日でした。
■ 捌くのが上手な人のところには、近隣の家の羊もお願いされます。   ■ 足の付け根から息を吹き込んで、羊を風船のように膨らました後皮をはがします。
 
  肉になった後には
さて、羊が捌かれ、当日から数日の間、これでもかというほどの肉料理が出されると、しばらく進んで肉など食べたいという気分にならないのは、きっと私が外国人だからなのでしょう。肉がなければ料理じゃない、みたいなところも大いにあるモロッコ人にとっては、もう本当にうれしい日々。

羊が捌かれた当日は、まずは内臓のバーベキューからスタート。
肝臓を脂の膜で巻いたものや、小腸で脂をくるんだものなど管理人も大好物。お肉そのものよりも楽しみです。
お肉そのものは、捌いた直後よりもある程度時間を置いてからの方がおいしいので、食べるにあたっても夜になってからか、部分によっては翌日から。

串焼きにしたりそのまま炭火で焼いて食べたり。そして残りはタジンに、クスクスに。さらに1ヶ月くらい経つと、内蔵や残りの肉で作ったモロッコ式ソーセージのようなものが食べごろに…!
そしてなんとさらに、このお肉たっぷり、幸せたっぷりな日々の後、実はモロッコ人たちにはもう一つオマケが待っています。

頭からおしりまで、きれいに肉を平らげてしまった後、唯一残るのが足先と、剥がす時から「パジャマ」と呼ばれながら裏表に脱がされた皮。
足先こそそのまま捨ててしまいますが、羊の皮は、毛の部分もきれいに掃除されて数週間後に絨毯となって戻って来るのです。

買って来た羊が大きければ大きいほど、当然羊の絨毯の大きさも大きくなるわけで、これまた見栄っ張りなモロッコ人にはちょっとした自慢のタネ。もっとも、死に行く羊の姿に哲学していたかと思えば、白くてフカフカな姿になって戻って来た時には「ちょうだいー!」といって大喜びしたのはまぎれもなくこの私…。
人間なんて至極ゲンキンな生き物…、いや、それともそんなのは私だけでしょうか?!
■ 内臓を洗う作業はなかなか大変。けれどもそれだけに美味!   ■ 炭火の香ばしい香りと、山育ちのくさみのない羊の肉は最高のごちそう。
 
ラマダンの1ヶ月 モロッコ料理の調理器具とスパイス

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