旅の情報編08:管理人の小部屋
雨の思想と太陽の宗教 「ありがとう」感謝の気持ちは5DH?!


 
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インシャアッラー
〜もしも神がそのようにお望みになれば〜


この言葉を最初に聞いてその意味を知ったとき、おそらくほとんど全ての日本人が、全てを神だのみにしてしまう曖昧さや、いいかげんさみたいなものにあきれる事になるのだろう。
私にとってもそれは例外ではなく、次々と破られていく約束の山に、あきれるしかなかった日々。
この言葉を聞いたら最後、「いや、絶対だから」「それはモロッコ式のお約束?それとも確実なお約束?」と確認するのはあたりまえ。何か未来の話をするたびに口にされるこの言葉は、何かの約束が破られることの前触れくらいにしか意識していなかった。

しかし、そんな私がある日突然、この言葉を口にせずに約束事をすることができなくなってしまった。
約束が大切であればあるほど、口にせずにはいられないこの言葉。
ついこの前までは、約束をやぶるための枕詞だ、くらいにしか思っていなかったはずなのに。
この、日本人にとっては「違和感」という言葉そのもののような「インシャーアッラー」が、モロッコの人々と過ごす騒がしい時間の中で次第に姿を変えてこようとは、この国とつきあい始めた当初、思ってもみない事だった。

「じゃあ、明日8時に」  「インシャーアッラー」
「後で電話しますから」 「インシャーアッラー」
「飛行機は1時間後に到着の予定です」「インシャーアッラー」etc。

時間におくれない事、約束を守ること、そんなことが全て当たり前の我々日本人にとっては、なんでそんな些細な事にいちいち神の御意志をあおがなければいけないのかまるでわからないし、そもそも神の御意志以前に、この言葉を実際エクスキューズとして使おうとする人もいるわけだから、自分の失態へのいいわけに神様までかつぎだして来るその姿、信心深いのやらばちあたりなのやら、いらいらもつのる一方...というのが、ごくごく普通の感想かもしれない。

“この言葉は、日本人的感覚と、イスラムを信仰する人々との間に生まれる感覚の違いをもっとも端的に表した言葉だ”といった具合の説明も、この言葉に実際ふれた人にはまるで必要無いだろう。

なんでも予定したとおりに事が運んであたりまえだと思っていた自分。
「約束も予定も、その通りになるように努力して当たり前だし、それができないで予定を決めるなど怠慢だ」
インシャーアッラーという言葉の意味から約束をすることの意味まで考えてみた所で、このへんが生真面目な日本人代表の意見としては関の山。

けれども、本当に自分の予定というものが、予定したその通りに実現するというのは、あたりまえなんだろうか。

もしかして、私は家の扉を出たところで事故で死んでしまうかもしれないし、待ち合わせに向かう途中、どうにも困った人を助けてあげようと思ってしまうかもしれない。
もしかして家族のだれかが急病になってしまって、予定していた事をキャンセルしなくてはいけないかもしれないし、もしかしてもっといい事を思いついてしまって、過去の自分が作った予定はどうでもよくなってしまうかもしれない…。
何か一つのことをしようという時、そういった「もしかすると」という可能性は、いったいどれだけ含まれていることか。そしてそういった可能性の一つ一つが、全て「もしかしない」ではじめて、予定は予定通りに実行されることになるわけだ。

こうして考えてみると、思ったことが思い通りになるというのは、だんだんあたり前の事には思えなくなってくる。
もしかして、思い通りにいってあたりまえだと思っている自分は、まわりの人の努力や苦労、協力を想像することもできない、とんでもない思い上がりなのかもしれない…。
そう思った時、口から自然とこぼれてきたのが、あれだけ曖昧さの代表、言い逃れの口実だと思っていた、「インシャアッラー」という言葉だったのだ。

その言葉は、言うなれば日本人である私達が「いただきます」や「ごちそうさま」と口にする時に、目の前にある食事に対する感謝だけでなく、背後でさらにお百姓さんや漁師さん、そしてその恵みを与えてくれた八百万の神に感謝している気持ちと似ているかもしれない。

「予定通りにいきますように」
その願いは、「そうなるのがいいだろう」と神にも共感してもらうことがかない、関わる全ての人の予定が恵まれてはじめて実現されるもの。
そんな、どこか日本人の心情にも通じるような謙虚な気持ちが、この「インシャアッラー」という言葉の持つ温もりではないかと、日々モロッコの人々の曖昧さの中で暮らすうちに、いつのまにか思うようになっていた。
エクスキューズの代名詞にしか思えなかった言葉がこうして自分に沈みこんでいった時、ようやくこの国、モロッコの生活にまぎれこみはじめたのかもしれないと、この言葉で約束を締めくくる時思うのだ。

しかしながらこの言葉が口になじんできたということは、ちょっぴりおセンチな「わかったつもり」気分でいる日本人の自分さえ、エクスキューズ一つに、神だの運命だのを持ち出して弁解しはじめてしまうかもしれない可能性も含んでいたりする。
そんなところが大いに危険だったりするかもしれないが、今日も私は唇のはしにアヤシゲな笑みを浮かべながらこの言葉を口にするのだ。
インシャアッラー、と…。


 
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